ローマの落日
先日、小学校のトイレを掃除した際、水の流れのよくない排水溝を見つけました。中が詰まりかけているようで、水がじわっとしか吸い込まれません。こういう状況に気づいたら、私はすぐにその場で対処します。「そのうち、やればいいか」と思っている間に、問題は悪化するからです。
今の日本は、この排水溝の状況とよく似ています。以前と比べて世相は確実に悪くなっているのに、多くの人はそれに気づかないか、見て見ぬふりをしています。このままいけば、いつか国全体が目詰まりを起こし、問題が一気に噴き出すでしょう。
かつてローマ帝国は地中海周辺に総延長三十万キロもの街道を巡らせ、経済的にも文化的にも大繁栄を遂げながら、滅亡しました。それだけ力を持っていた国がなぜ滅びてしまったのでしょうか。
イタリア半島の小さな都市国家として誕生したころのローマは、市民一人ひとりが国家という「公」のために何ができるかを考え、行動し、めざましい発展を遂げました。ところが、帝国として繁栄を迎えると、市民は自身のなすべき義務を忘れ、欲望と快楽を満たすために「パンとサーカス」ばかり要求するようになります。「自分さえよければいい」という「私」の世界の膨張が、磐石に見えたローマを内側から滅ぼしたのです。
このままいくと日本もローマと同じ道を辿るのではないかと、私はたいへん危惧しています。
真の幸せは義務の甘受の中に
かつての日本人は、自分の利益より、他人や全体のことを配慮する美徳を持ち合わせていました。宣教師のフランシスコ・ザビエルは、上陸した鹿児島で初めて会った日本人の印象をこう書き残しています。「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません」。ザビエルだけでなく、その後、来日した外国人のほとんどが日本人を称賛しています。
私は日本を再び、世界中から称賛されるような国にしたいと願っています。この大目標を達成するために、努力し続けているのが「掃除」です。
今の日本では、ゴミを拾う人よりも、ゴミを捨てる人のほうが圧倒的多数です。自分が捨てたゴミを片付けてくれる人がいて、日々の生活が成り立っていることに多くの人が気づいていません。
自分の権利が守られているかどうか、要求が通っているかどうかということにはとても「敏感」なのに、普段、自分がいかに守られているか、愛されているかということには「鈍感」です。まさに私中心の世界です。
昨今の安全保障法制に関する議論にも同じことがいえます。法案成立によって個人の自由や権利がいかに制約されるのか、という意見や報道ばかりで、自分たちが先人や国家にどれほど守られてきたのか、という視点の議論はまったくというほどありません。フランスの作家、サン・テグジュペリは『夜間飛行』の序文の中で次のように記しています。
「真の幸せは、自由の中にあるのではない。義務の甘受のなかに存在する」
かつての日本人は、自分の利益に結びつかないことであっても、周囲の人や社会、国家の利益を優先する品性を持ち合わせていました。「見返りが保証されなければ損だ」という価値観の人がこれ以上増えたら、ローマと同じ歴史を辿ることになるでしょう。そんな国にしてしまっては、後世に申し訳がたちません。
自分の意に反していることにこそ「鈍感」に。そんな美しい心をもった日本人を一人でも増やすために、私は努力し続けます。
鍵山秀三郎