七万五千枚の積み重ね
もともと私は、人と接触するのが得意ではなく、笑顔で接したり、人前で話をすることも苦手でした。話をしなくていいのなら一日中、黙っているほうが楽なくらいです。でも、これを自分の性格として押し通すのは我が儘ですから、少しずつ克服する努力をしてきました。
世の中には「自分はこういう性格だから直せない」と開き直っている人がたくさんいます。自分の我が儘を押しつけ、周囲に不快な思いをさせておいて、いい人生が築けるはずがありません。
いい人生を築くには、人を喜ばす努力を積み重ね、習慣とすることが大切です。人を喜ばせる基本は、自分の時間と身体を使うことです。中でも私は「手紙」を書くこと、「掃除」をすることを徹底し続けてきました。
手紙を書くには労力がいります。よほど相手のことを思い、頭の中をいっぱいにしなければ書けませんし、喜んでももらえません。私は平成四年にハガキの練達者・坂田道信先生とのご縁を得て以来、複写ハガキを欠かさず書き続けてきました。
これまでに書いたハガキは七万五千枚になります。使ったボールペンの芯は、もう片手ではつかみきれません。
一日一枚、ハガキを書くか書かないかの差は、わずかに見えて、五年、十年積もれば実に大きな差となります。徹底してやり続けたことで、私は何物にも代えがたい、よい縁をえることができました。
ともすると人間は、難しくて特別なことをしなければ、成果があがらないように思い込み、日常の小さな実践を軽くみてしまいがちです。しかし、小さな実践を積み重ねることでしか「よい習慣」は身につきません。習慣が変わらなければ、性格も行動も変えることはできないのです。微差の積み重ねが、大差となるのです。
ネクストワン
経営がうまくいってない会社は決まって、挨拶や掃除といった日常の小さな実践がおろそかです。それでいて立派な理念を唱えたり、大きな計画ばかり考えるので、何をやっても失敗し、元に戻ってしまうことが多いものです。
鎌倉の円覚寺の初代管長を務められた今北洪川老師の『禅海一瀾』という本に「百萬経典 日下之燈」という言葉があります。百万本の経典を読むほど知識を詰め込んでも、それを実践しなければ、さんさんと照らす太陽の下のロウソクの灯のようなもので、全く役に立たないということです。
私が会社を経営していたとき、一番大切にしていたのは、売上げや利益を伸ばすことより、社員の人間的成長を図ることでした。人間は簡単には成長しません。相当な期間と忍耐力をもって、コツコツと実践を積み重ねることにより、習慣が変わり、人間の質が変わります。今日よりも明日、明日よりも明後日と社員が成長できるよう、経営者は全力で努力しなければなりません。
歴史に名を残す偉人に共通するのは、最後まで成長をめざし続ける姿勢です。私が尊敬する喜劇役者のチャーリー・チャップリンはまさにそうでした。家庭環境に恵まれなかったチャップリンは、にこりともしない母親をどうにか笑わせようと毎日工夫を重ね、少し笑えば、もっと笑わそうと懸命に努力をしました。それだけに数多くの作品を残しながら、二つとして同じ手法を使っていません。ある時、記者から「今までのなかで最高の作品はなんですか」と問われたチャップリンは即座にこう答えました。
「ネクストワン(それは、次の作品だ)」。
私自身、いくつになっても紙一枚分でも成長ができるよう、努力を重ねていきたいと思います。
鍵山秀三郎