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とらわれは春の雪のように

 私がこの歳になっても、元気でいられるのは、高校時代の恩師の教えがあったからです。
「攀念痴を持たない」
 険しい岸壁にしがみついて上ることを「登攀」といいますが、「攀念」とは、人への恨みにとらわれ、憎み続ける想念のこと。
「痴」とは、そういうことをするのは愚かだということです。

 若い時は、たびたび人に騙され、裏切られて大金を失ったりしますと、癪に障って、相手を許せず、夜も眠れないことがよくありました。身体はクタクタなのに、頭はグルグルと冴え続けて、寝てくれないのです。ようやく朝方になって眠くなるという、愚かなことを繰り返していました。
 人を恨むと、膨大なエネルギーを消耗して理性的な判断ができなくなり、ついには精神まで蝕まれます。騙され、裏切られたうえに、心も荒んで、こんなに割に合わないことはありません。結局のところ、「攀念」を抱いた自分が損をし、不幸になるのです。
 そう理屈ではわかっていても、人はなかなか、そのとらわれから抜け出せないものです。私がそのことに気づいたのは、さんざん体験してからのことでした。
そこで私は工夫をしました。「攀念」を思い起こしそうになったら、「あっ、またつまらないことをやっているな」「そんなことをしてどうするんだ」と自分に言い聞かせるのです。
人間ですから、一度や二度言い聞かせたところで、念は沸いてきます。それでも声に出し、繰り返し言い聞かせているうちに、心のとらわれを春の雪のように消すことができるようになりました。
 もし私が、過去に人から騙されたことをすべて根に持ち、恨み続けていたとしたら、心身ともに消耗し、今ごろ命はなかったでしょう。

因果は一如

 「攀念痴」を持たないようにできれば、その分のエネルギーを、人格を高めたり、社会をよりよくしたりなど、建設的に使えるようになります。一方「いまに見ていろ」「必ず見返してやる!」というような思いで、自分が努力の過程で受けた仕打ちや憎しみを、そのまま人に返してしまう経営者が実に多いものです。当然、仕打ちを受けた人の心は荒み、その人はまた別の人に仕返しをするでしょう。心の荒みは自分から周囲へ、周囲から社会へとどんどん広がり、エネルギーは奪われていくばかりです。自分が味わった辛さ、悔しさを周りの人にまで巻き添えにせず、自分自身で消化できる人間になりたいものです。
 亡くなった吉野弘さんの詩に「心に耳を押し当てよ、聞くに堪えないことばかり」という一節があります。自分の心が何を言っているのか、自分でよく聞いてみろ。
聞くに堪えないようなことを、いつまでも心に持ち続けていると、卑しさ、醜さにつながります。心に耳を澄ませて、心地よいことを抱き続けていく、その努力が経営者には欠かせません。
 マイナスの種を蒔けば、マイナスの結果になって表れてくるのは当然のことです。「因果一如」という言葉があります。因とは原因であり、果とは結果です。原因と結果は一つであり、原因をつくったときに結果も同時に生まれているということです。しかし物事によっては、原因をつくってから結果がでるまで、一か月、一年、あるいは十年もかかることがあります。それでも必ず、自分のつくった原因どおりの結果が表れてくることは間違いありません。
 社員がよくならない、会社がよくならないと愚痴をいい、誰かを恨むより、自らよい原因をつくる努力こそが、よい結果を招くのです。

 

鍵山秀三郎