コップを上に向けるには
「人を教育する秘訣はなんですか」と尋ねられることがよくあります。
そもそも私は人を言葉で説得したり、文章で伝えるのが不得意で、人を教育できるような特別な能力は持ち合わせていません。
人が人を育てるというのは、おこまがしいとさえ思っています。
人を育てることはできませんが、人が自ら育とうとするきっかけをつくることには、長年心を砕いてきました。
国民教育の師父として著名な森信三先生は次のように教えておられます。
「どんな素晴らしい教えでも、相手が心を開かなければ伝わらない。
それは、伏せたコップの上から水を注いでいるのと同じである。まずコップを上に向けさせることが大切だ」
聞く耳を持たない社員や生徒に、どんなにいい話を聞かせても、理解してもらえないばかりか反発を買うだけでしょう。
近ごろは、カリキュラムに基づいて教科書の内容を教えることが「教育」だと思い込んでいる教師が多いようです。
何よりも相手の心を開かせ、「もっと聞きたい」「学びたい」という気持ちを起こさせるところに、教育の原点はあるのではないでしょうか。
大切なのは「教化」ではなく「感化」です。
感化力は犠牲の質と量に比例する
感化ということを考えたときに、真っ先に思い出されるのは両親の姿です。
五人兄弟の末っ子に生まれた私は、なに不自由のない暮らしの中で、毎日遊びたいだけ遊び、宿題は兄たちがやってくれたものを、名前だけ書いて学校に持っていくような子供でした。
そんな生活も昭和二十年三月、東京大空襲によって家財すべてを焼かれ、岐阜県に疎開を余儀なくされたことで一変します。
そこで待っていたのは、体験したことのない過酷な農作業でした。慣れない仕事のうえ、疎開者に与えられるような農地は、もともと収穫に不向きな田んぼです。
それであっても両親は不平一つ言わず、目の前のことに骨身を惜しまず取り組んでおりました。
地元の農家も二の足を踏むような八月の炎天下にも、骨が曲がるほど働く両親の姿をみて、〝少しでもこの労働から両親を救いたい〟という切々たる思いが、心の奥底から湧き出てきたのです。
その瞬間から、ガラスのように弱かった私の心は、鋼の心に変わりました。
それからは、どんなに劣悪な環境の、過酷な労働であっても、まったく苦にはならなくなりました。
むしろ、どうすればよりうまく、効率的にできるのかというアイディアが、子供心に次々と浮かんでくるのです。
「人を感化する力は、自分が払った犠牲の量と質に比例する」
ドイツの哲学者、ディルタイの至言です。
掃除の時間に、教師が職員室でタバコを吸っているようなクラスで、掃除を真剣にやる生徒が育つはずがありません。
生徒に同情されるくらい、懸命に掃除に取り組む教師の後ろ姿が、子供たちの心を開かせるのです。経営も同じです。
「社員が育たない」と嘆いている経営者は、社員から気の毒がられるくらい一心不乱な経営姿勢を自分は持ち得ているのか、省みることから始めるべきでしょう。
私は一年三百六十五日休みなく、先頭に立って仕事をしてきたことはもちろん、全身全霊を傾けて事業に打ち込んできました。
中でも創業以来、率先垂範を心に決めて徹底してきたのが「掃除」です。
最初は熱心でも、少し会社の規模が大きくなると、率先垂範が疎かになりがちです。私の心の支えとなったのは、両親の後ろ姿でした。
名教育者の芦田恵之介先生の言葉に「自己を教育するは、他を教育する最捷径である」とあります。
自分を育てることなくして人を育てることはできない、と気づくことから本当の教育は始まります。
鍵山秀三郎