効率主義と便宜主義
できるだけ手を抜いて、小さな努力で成果を得ようとする人は、一時はよくとも、必ず行き詰まる。
これは社会に出てから六十年以上、数多くの人を見てきた私の実感です。
工夫を重ねて無駄をなくす効率追求は悪いことではありません。むしろ適度な効率主義は、人間と社会の進歩につながるものです。
けれども多くの場合、その適度が保てずに、度が過ぎてしまうのです。
例えば、塗っては乾かす工程が十段階必要な塗り茶碗があった場合、工夫改善をし、九段階で同じ品質のものがつくれるようになったとすれば、それは進歩です。
しかし、十段階かけるべき手間を、バレなければいいだろうと手を抜いて、六段階でよしとしてしまう。これは効率主義ではありません。便宜主義です。
「便宜主義」「形式主義」「小市民主義」。この三つは「進歩を止める三要素」です。
これにとらわれると、いつまでたっても人間が進歩しないばかりか、退化してしまいます。
ある著名なオペラ歌手の方と三回にわたり、テレビで対談をしたことがあります。
収録前のメーキャップの時、歌手のお付きの人がふと「これでいいか」と言うのが聞こえました。
「これでいいか」という言葉には、本当はもっとできるけれども、八分目で止めておこうという響きがあります。
すぐさま歌手の方に「私は、これでいいかという言葉は好きではありません」と言いました。すると歌手の方も「実は私もそうなんです」と答えられ、メークを続けられたことがありました。
「とりあえず、これでいいか」という便宜的な取り組みは人間を堕落させます。
放っておくと、ひいては組織を崩壊させるもとになるのです。
持たざる子の心を推し量る
臭いものにフタをして、形をつくろおうとするのが「形式主義」です。
㈱イエローハットのとある店舗で、三台分の駐車場を横切るように車を停め、店に入ろうとするお客様がいました。
すぐに駆け寄って「すみませんが、線の中に真っ直ぐ停めていただけませんか」とお願いしたのですが、「すぐ帰るから」と聞く耳を持ちません。
「いえ、すぐでも真っ直ぐ停めてください」「いいじゃないか、ガラガラなんだから」。私ははっきり申し上げました。
「あなたのようなことをされると、この店はあんな停め方が許されるのだと、ほかの人も真似をされるから困るのです。停め直してください」。
結局、その方は「二度と来るか」と言って、何も買わずに帰っていかれました。
なぜ、私が車の停め方一つに厳しい態度を貫いたのか。それは小さなルール違反が積もり積もって、全体の秩序を破壊することを知っていたからです。
最近、頻発する「想定外」という言葉はまさに形式主義でしょう。
〝考えたくないから考えなかった〟と胸を張っているようで、無責任そのものです。
便宜主義と形式主義が染みついた組織は、誰もがこぢんまりと自分だけの幸せを追い求める、小市民主義にも陥りがちです。
「自分さえよければいい」という考え方が蔓延した結果が、今の日本です。
教育者の森信三先生にこういう逸話があります。
森先生がある小学校を訪問した際、そろばんの授業なのに、一人だけそろばんを持っていない子供がいました。
担当教員がそのまま授業を始めようとしたのを見て、森先生は叱りつけます。
「今、このそろばんを持っていない子供の心を、なぜ推し量れないのか。そんなことも分からないようでは教師の資格はない」と。
自分さえよければいい。その考え方が教育現場から企業社会まで、世の中を悪くしている元凶です。
その考え方から抜け出すには、「私」を小さくして「公」を大きくすること。企業であれば経営者が公共心をどれほど持っているかです。
周囲を喜ばせる生き方の中に、便宜主義、形式主義、小市民主義と決別する鍵があります。
鍵山秀三郎