勤を以って拙を補う
三月に北陸新幹線が開通し、東京・金沢間が最短二時間二十八分で結ばれました。
夜行列車で一晩かかっていた一昔前を思うと、便利になったものです。
便利になるのは、よいことです。では不便はすべて悪かというと、そうとは言えません。
不便への対応は人によって四つに分かれます。これは静岡県の井口君夫様から教えられました。
一つ目は、不便を不便のまま、工夫も何もせずに放っておく人。
二つ目は、不便に対する愚痴を言うだけの人。言えば誰かがなんとかしてくれるのではないか、という期待もあっての愚痴です。
このように目の前の不便になんの努力もしようとしない人にとって、不便は「不満」の種です。
三つ目は、家族や部下、社員など人に命じて、不便を改善しようとする人。自分は何もせず、人にやってもらおうという考えの人です。
そして四つ目が、自分自身で不便をどう克服できるかを考え、工夫、改善していく人です。
不便を不便のままにせず、自分でどうにかよくしようとする人にとって、不便は「成長」の種です。そういう意味で、不便は一概に悪とはいえないと、私は思っています。
中国の白居易の詩の中に「拙補勤以」という言葉があります。「勤を以って拙を補う」と読みます。
直面する不便に対し、自分の力が及ばなくとも目をそむけず、考えて考えて考えて、そして工夫をして、努力を継続すれば必ず補うことができる、改善できるということです。
誰しも一生涯、すべて平穏という人はないはずです。経営者となれば、明日何が起こるかもわかりません。
順境の時はともかく、不便や逆境に差し掛かった時にこそ、人間が試されます。
「攀念痴」を持たない
私が戦後、疎開先の岐阜から東京に戻り、仕事を始めたのは二十歳の時です。
裕福な家庭で何不自由なく育ちましたが、東京大空襲で全財産を失い、残ったのは庭のイチョウの木一本だけでした。
一から働こうにも、才能も技術も何一つ持ちあわせていません。
働き始めた住み込みの会社には先輩が六人いました。よかれと思って部屋を掃除すると「余計なことをするな」と怒鳴られ、散々な目に遭いました。
経営者一族からは理不尽な命令ばかりで、朝から晩まで追い回される毎日でした。
あの時、私が不満や憤りをマイナスの力にせず、成長の糧とできたのは、ある言葉に支えられたからです。
下村湖人先生の『青年の思索のために』という本で、私はこの言葉と出会いました。
「私は不満のない人生をおくりたいと思わない。私ののぞむ人生は、不満が平和をみだす原因とならず、創造への動機となるような人生である」
それから八年後に独立し、自分で会社を始めました。振り返っても、思い出されるのは辛かったこと、苦しかったことばかりです。
人に騙されて大金を失い、悔しくて眠れない日もありました。さんざん体験していくうちに、何が起きても心を乱さず、平常心でいられるようになりました。
人を憎み、恨んだところで、結局、損をするのは自分です。人生の極意は「攀念痴」を持たないことにあります。
「攀念」とは、人を憎み、恨む想念、「痴」とはそういうことをするのは愚かだという意です。
「過去と他人は変えられない」といわれますが、「過去」を変えることはできます。起きた事実は不変ですが、自分の受け止め方を変えることで、その過去が持つ意味は変わるのです。
私は今、過去のすべての苦労を笑って話すことができます。とても幸せなことだと思います。
不便や逆境を嘆き、その過去にいつまでもとらわれているようでは、人間的成長はできません。経営者にとって逆境に勝る教育はないのです。
鍵山秀三郎