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清風掃々第6号 平成14年1月発行
第2回全国大会の講演録

 

「良樹細根」
日本を美しくする会 会長 鍵山 秀三郎

 

皆さんこんにちは。
今日は日本を美しくする会・掃除に学ぶ会『第二回全国大会龍馬大会』にご参加を頂きましてまことにありがとうございます。

日本は、永い間にわたって上へ上へと向かって進んでまいりました。
そのためいつの間にか、大事なことでも手を省いてすぐに効果のあることをやってまいりました。
それで、ある一時期はそれによって得ることも大きかったのですけれども、いつの間にか大事なことを全部省いていくということから、次々といろいろな問題が起きるようになりました。
このまま行きますと、形だけは膨らんでいっても内実は伴わない、むしろ反対の方へ行ってしまう、と私は予てから危惧しておりました。
それを改善するためにはどうしたらいいのか、もっと一人ひとりが自分の身を低く置いて、自分の手足を使って人間として本来あるべきことを身につけていくことが大事ではないかと思ってきたわけでございます。

人間の人生においても、あるいは企業の仕事においても、またスポーツや芸術においきましても大事なことは、みんな普通のことをきちんとやるというところから始まっているんですね。
普通のことを徹底して掘り下げていきますと、いつの間にか普通ではないことに変わっていく。
この時に普通のことの質が一挙に変わっていくわけです。
この生き方は、日本の歴史においてずっと守られてきたわけでございますが、残念なことに早く成果を上げたい、早く形あるものにしたいと願う人が多くなったために、時間がかかったり、手間がかかることを省くという風潮が強くなってまいりました。
その結果、いろいろ不祥事がこの世に起きておりますね。
現につい最近起きた狂牛病なんかもその一つでして、従来より牛を早く大きくしたいということから、本来の飼料とは違う飼料を使ったことから起きたわけでございまして、それが違法であっても、それがおかしいと思っても平然と行われる社会になってしまったんです。
これでは、普通のことはなおさら、なおざりにされてしまうと思います。

さきほど申し上げましたように、普通のことというのはみんな大事なことばかりでございまして、大事なことはみんな手間がかかったり、時間がかかったりするものばかりなんですね。
大事なことで手間のかからないことを一つもないんです。
ですから、時間がかかるから、これは手間がかかるから、面倒だからと言ってその仕事省くことは、大切なことを省いている。
大切なことをなおざりにしている。
実に誠実さに欠けた生き方だと思うんです。

例えば子供を育てるにしても、一歳の時には一歳の、二歳の時には二歳の、三歳の時には三歳の手のかけ方あるわけで、それを三歳からいっぺんに七歳の教育をしようとしても四歳、五歳、六歳の省いたことが後になって出てくるわけでございます。
後になって出てきたから、それを前に逆上って直すということはできないわけでございます。
何でも手のかかることを惜しまずにやっていく。これがとても大事なことだと思います。

私は、かねてから人の心というものをとても大事にしてまいりました。
勿論企業人の一人として会社の売上を上げたり、利益を上げたりすることも大事でございますから大切にはしてまいりましたけれども、しかしそれだけで、会社は売上が大きければいい、利益さえ上がればいいものではないと思ったんですね。
そこに働く社員の人たちが、心を荒ませて社会に迷惑をかけながら、ただ仕事の能率だけを上げているとしたら、本当にその会社は社会に存在して欲しくない会社になってしまう。
仮に売上や利益がよその会社に劣ったとしても、その会社の社員の一人ひとりが社会人として立派な資質を備えていたとしたら、その会社は存在価値があると思うんですね。

群馬県にお住まいの星野富弘さんという詩人の詩で、「風は見えない。だけど木に吹けば緑の風になり、花に吹けば花の風になる。今、私を過ぎていった風はどんな風になったのだろう」そんな詩がございます。
正にこの詩が教えているように、私たち一人ひとりの人間を通り過ぎていく風は、爽やかで清く澄んだ風であれば、日本の国は直ぐに良くなるわけですが、一人ひとりを通り過ぎていく風が生臭いにおいのするものであったり、忌まわしい臭いのするものであったりしたら、いかにその人が仕事の上で業績を上げたとしても、社会全体国家としては、忌まわしい国になってしまうと私は思うのです。

私は、今六十八歳を迎えたところで、今こんなことを言っておりましても、若い時は随分人さまに迷惑をかけたり顰蹙をかったりしたこともございました。
しかし、その時にいつまでもこんな人生を送っていてはいけない、一日も早くこの命がある間に、この世の中に存在することが好ましい、そういう人間になりたいということは願っておりました。
私のような人間がこの世の中に増えた時に、この世の中が悪くなるとするならば、私は生きている意味がない。
ましてや社会人として存在する資格がないわけです。
逆に私と同じような考え、私と同じような行動をとる人が世の中に一人でも増えることによって、社会が良くなり国家が良くなるとしたら、私は人間として存在することが許されることになりますし、社会人としても存在の意義があると思うんですね。
このように、自分の存在が社会にとって好ましいものであるかどうか。
これがとても大事なことだと思います。
そのためには、一人ひとりがまず変わっていくことが大事だと思うんですね。

しかし、変わりたいというふうに思っても、どう変わっていいか分からないのが今の世の中の現状だと思うんです。
そのために迷ったり、あるいは道を踏み違えたりということが社会に沢山できております。
そこで私は、自分の進むべき道がどういうものであるかということを自分でよく知るためには、人間はもっと謙虚にならないといけない。
謙虚になることが一番冷静な判断をする元であると思うのですね。

その謙虚になるためにはどうしたらいいのかいうのが、私が長年に渡って取り組んできた掃除でございます。
掃除をすることによって傲慢になったという人を未だかつて私は一人も見たことがありません。
むしろ掃除のようなことは自分のやることではない、もっと能のない人がやることだという見方をする人が傲慢になるのであって、掃除をする人を軽蔑したり卑下したりする人こそ傲慢と思うのです。
自ら箒とちりとりを持ち、雑巾やバケツを持つことによって、謙虚になることはあっても、傲慢になることはまずないと思うのです。
そこで、徹底して掃除に取り組むことを私はお勧めしてまいりました。

幸いにして平成三年十一月二十三日、岐阜県恵那市の東海新栄電子工業という会社の社長、田中義人さんとご縁ができました。
田中義人さんが私の考えを一番先に理解共鳴してくださり、そこからトイレ掃除ということが、今まで水面下でこつこつとやってきたものが、にわかに注目を浴びる元になり始めたわけでございます。
今から約十年前のこの出会いがあったからこそ、その二人の出会いが、こうして日本全国この運動が広まる元になったわけでございまして、如何に一人の人間の力が大きいかということがお分かり頂けると思うのですね。

そして平成五年に、わずか三十五人が集まって、岐阜県恵那明智町という小さな町の公共駐車場に集まってトイレ掃除の勉強会をしたのが、これが第一回でございます。
そのあと参加された方々が全国に散って、自分の町でも自分の市でも県でも、こういう運動をやりたいというふうにして始まったのがこの運動でございます。
こういった方々が、ご自身の仕事や時間を犠牲にしてもでもこの運動を育てて頂いたことによって、この運動が育ったわけでございます。

今、忌まわしい事件が起きているこの国を良くしたいと思っている人は沢山いらっしゃいます。
この国が悪くなればいいと思っている人は、少なくとも日本の国の中には一人もいらっしゃらない。
時には外国の中に、日本の国が悪くなるのを願っている人があるかも知れませんけれども、それは国家としてそうであっても個人ではいないはずです。

この日本の国を良くするためにはどうしたらいいか。とてもそんな大きいことはできないと思う方がいらっしゃる。
とてもとても日本の国どころか県も無理だ、市も無理だ、町も無理だ。いや自分の家さえ良くできないという方もいらっしゃるわけですけれども、実はこの国を良くすることは実に簡単なんです。
一人ひとりが一日一日を良い生き方をするというだけで、日本の国はまたたくうちに良くなるわけです。
今のような生き方のままで、いくら沢山の税金をつぎ込んでも何しても良くならない。
まず一人ひとりが良い生き方をするというのはどういうことか。例えば自分の家からごみ一つでも、きちんと資源になる物は仕分けをして、紙一枚でも資源として出して、そして分類をして出す。
そうすることによって行政の負担はぐっと減るわけですね。

今まで人に依存していたこと、とくに行政に依存していたことで、自分でできることは自分でする。
あるいは自分の手に少し余ることであっても、何とか努力して少しでもそれを引き受けていこうという気持ちになったときに、はじめてご自身の人生も良くなるし、国家そのものもどんどん良くなると思います。
ところが残念ながら。
ごみくらいいいじゃないかと言ってごみの捨て方一つ、あるいはたいした病気でもないのに救急車を呼んだり、本来なら個人の負担にすべきところを行政に依存したり、こういうことが社会をどんどん悪くし、また財政負担を重くしていく元でございます。

私の家には沢山の書類、手紙が来るんですけれども、全部紙を分類するんです。
その時ホッチキスがついていれば全部これを取ります。
最近は製紙会社も進んでいて、ホッチキスが入っていても大丈夫だと言っていますが、それを私も知っているのですけれど、それでも私はちゃんと取って、再生に出したときに何も差し支えないように努力しているのですね。

もし日本中の人が、全部ホッチキスの針を取り、あるいはクリップを全部取り除いて純粋な紙だけにして出せば、製紙会社はクリップの針などを取り除く装備はいらなくなる。
それによって国家全体の社会負担というのは減るわけです。
たかがホッチキスの針一つでも、誰かが一つでも二つでも混ぜるがゆえに、全体の古紙の中からホッチキスの針を取り除かなければいけない。
そういう大きな負担を全国民が背負う事になるわけです。

例えばビールを飲んだ。
誰かがその瓶の中に、煙草の吸殻一つを入れて出すと、百万本に一本それがあっただけで、99万9999本まったく意味のない無駄な洗浄をしなければいけない。
というのが今の日本の国の現状でございます。

たった一人の心ない行為が全国民に大きな負担をかけている。
この生き方、考え方を改めていきたいと思うのです。

そのためには、まず物事に気づく人になる。それから、人に対するちょっとした思いやり、こういったことがとても大事なことでございまして、どんな能力才能を備えるよりも、人に対する思いやりを持つ。
温かい心を持つ。気づきを持つということがとても大切だと思います。

この掃除に関わる意義効果というものは沢山ございます。
もうこれは数を挙げれば数限りないほどありますけれども、その中できょう五つだけ代表してお話いたしますと、第一番目に掃除をやることによって、自分の心を磨くことができるというこ とでございます。
人間の心は、部品のように、腕時計を外すように心を取り出すことができれば、一生懸命磨いて元に収めることが出来るわけですけれども、残念ながら人間の心が自分の体から取り出すことができない。
だとしたら、この心を磨くためには自分の手で磨けるもの、机でも椅子でも床でも、とくにトイレの便器でも磨ける物を徹底して磨き尽くしていくうちに、関節的に自分の心も磨かれていくということでございます。

第二番目は、さきほど申し上げた掃除を通して謙虚な心を養うことができる。

第三番目は、気づく人になる。

第四番目は、物事に関心を持つことができる。

最後は、感謝することができる、感謝する心が湧いてくる。

このことを通して人間が何を学べるかというと、人間みんなが程度の差こそあれ幼児性といいますか、未熟さというものを持っております。
私なんか幼児性の塊みたいな者ですから、あまり偉そうなことは言えないんですけれども。
この幼時性が歳とは関係なく、八十歳になっても幼児性そのままの人生を送っている人もおります。
二十代でも見事に幼児性を取り去っている青年もいるわけです。

幼児性というものは一体どういうものかと言いますと、まず第一番に甘えです。
これは他人依存。
人に依存する、銀行に依存する。
何でも依存だと思っていないのです。
他人依存の人は、協調性があると思っているのです。
実は、自分で協調性だと思っていることがよく見ると他人依存である。

次が自惚れですね。
目立ちたがるとか、これがありますね。

三番目はわがまま。
このわがまま幼児性の最たるものでして、三歳の時に許されないのに、いつまでたっても、幼児期の時と同じようなわがままをする。
このわがままを、ある意味では自分の信念だと思っている人もあるわけでして、信念とは違いますね。

このように幼児性の本質と他人の評価とは大きく違うわけでございまして、このことを自ら知るということが大事でございます。
そのことを知るもっとも大きな手段、しかも簡単で費用かからない、自分のちょっとした努力さえあればできるのが、掃除でございます。
しかもその中でも、一番人が嫌う、避けて通りたいトイレ掃除に取り組むそれによって自らの幼児性に気づくこともありましょう。

また掃除は自分のためだけではないですね。
掃除をすることによって勿論自分にもプラスになりますけれども、掃除をしている姿そのものは、それを見た人の心までも変える。
これはとても大きな力を持っております。

私は、最近朝通るコースが変わってしまいましたが、以前は東急電鉄の東横線の自由が丘という駅の側を通っておりました。
その時、いつも六時前に腰が九十度に曲がったお年寄りが、ゴミの袋を引きずって歩きながら、誰が汚したとも分からないゴミを毎朝、雨が降っても掃いてる人がいるんです。
九十度も腰が曲がっていますから袋を持ち上げることが出来ない。引きすって歩きながら、人が捨てた煙草の吸殻、ゴミ、飲み物の器、缶、そういうものを綺麗に掃いて、私が六時ちょっと前に通るころには、ほとんど綺麗になっている。
なんとこの人は偉い人かなと思いましたね。
どんな立派なことを言うより、この人の人生は素晴らしい人生、こういう人が本当のエリートだと思いました。

エリートということについて、スペインの哲学者のオルテガという人がこう書いております。
真のエリートとは、断れば断れることを敢えて断らずに引き受けて行く人。
自らの背に自らの引き受けて荷物を背負っていく人のことをエリートだというふうにオルテガという人が言っているわけです。

六時前のほとんど人が歩いていない町を、毎朝、雨が降ってもゴミ掃除をしている人。
誰から命令されたわけではない。私はその人の姿を見ると本当に頭が下がる思いがしたんですね。
まだ私は偉そうなことを言っていても、この人には人間の質としてはまだまだ及ばないということをつくづく思いました。
まだその方の年齢になるまでには相当な年月が与えられておりますので、もしか自分の命があれば、天が生かしておいてくださるならばこの方のような生き方をしようというふうに思っております。

話が変わりますけれども、いろいろなことに取り組もうとすると、私にはそういう力がない、あるいは人を動かすような器ではないとか、私が言っても誰もやらないと言って消極的になる方がとくに日本人には多いんですね。
本当は、お一人おひとりは善良で素晴らしい方なのですけれども、自分だけそういうことをすると人になんて思われるか分からないとか、人から非難されたら困ると言って、やろうとする方が少ないんです。
それは大変な間違いでございまして、例え非難されても、あるいは批判されても一向にかまわない。
何故ならばやっていることの価値は非難されても変わらないんです。

私も、昔はトイレ掃除をしていることを随分人から非難されたんです。
しかし私のやっていることは一つも価値が下がらなかったですね。
逆に褒められたからと言って価値が上がるものではない。
人の挙誉褒貶によって自分のやってることの価値は変わらない。
このことをまず知って頂きたい。

もう一つは、どんな乏しい小さな力であっても心を込めて徹底してやり続ける、それはとても大きな力に育つということです。
そのことを今日は黒板に書いて示すことはできないのですが「箸とく盤水を回す」と言って、一本の箸ですね。
『盤水』はたらいの水と書きますけれども、一杯に入っているたらいの水を一本の箸で回すことが出来るという教えでございます。
そんな馬鹿なことが出来るわけないじゃないかと思う方はやってみてください。
たらいに一杯汲んだ水の中心を一本の箸で回し続けると、最初は箸しか回りませんけれども、ずっとやり続けていると必ずその箸の周辺に渦ができてくる。
その渦は、回し続けているうちにだんだん大きくなっていく。
しまいにたらいの水全部が回り始める。
つまり一本の箸でさえ、たらいの水を回す力になるということですね。

もう一つは、ここにコップがありまして、仮に皆さんがコップ一杯だけの努力をして、もうこれが自分の限界だと思ったときに、もう一滴ここに努力を足すことができるかどうか。
冗談じゃない、一滴くらい足したって意味がないと思う人もいるでしょうが、私はそうではない。
一滴くらい足せばそれだけ多くなるという考えです。

私は、コップに一杯ではない。
仮にそれが洗面器であっても、たらいであっても、相手がプールであっても一滴の水を足すという努力を怠らない。
それがやがて、大きな力になるということを今までの人生で知ってきたわけでございます。

このいいことを私一人だけが知って、あの世に持っていってしまったのでは勿体ない。
ですから、一人でも多くの方に普通のことをやり通すと必ず普通ではない、限界を超えて普通ではない域に到達するということ。
大事なことは省かずに丹念にこつこつやること。
こういったことを改めて知って頂いて、みなさん一人ひとりの人生を良く、そしてそれを通して、社会が善くなって国家が良くなるということを願っております。

実は私は人さまの前に立って話をするというのがとても苦手で、さきほどあそこの横に座っているときも緊張して、できればここに出ないですむ方法は何かないだろうかというくらいに、私は人さまの前に立つのが苦手なんです。
しかし、今お話したように自分の人生を通して知って良かったことを、それを自分だけ独り占めにするとしたら、そういうのを本当のケチと言うのですよ。
ケチと言うと、持っているお金を使わないとか、そういう人のことを言うのですけれども、本当の一番のケチは、自分の知っていることを人さまに伝えない。
あるいはもっとケチは、自分の使えるべき手足を人のために使わない。
これが最大のケチでございます。

どうか、そういう人生ではなく、お一人おひとり与えられた能力をフルに活かして頂いて、勿論ご自身の人生を良くして頂く。
そのためには、毎日を後味のいい日を送る。
後味の悪い日を送ると、それが人生を汚していくことになると思いますので、後味のいい日々を送って頂く。

それがやがては、社会国家を良くしていくことに繋げて頂きたいと思います。
これだけの大勢の方がコップ一杯に一滴の水。
あるいはたらい一杯に一滴の水。
一本の箸になって水を回して頂く努力をしてくだされば、それはやがて大きな力になると思います。

与える頂いた時間がもう五分残っておりますけれども、私はなるべく自分の枠を少し残すという考え方に、食べる物は全部頂きますけれども、それを基本にしておりますので、これで終わらせて頂きます。ありがとうございました。